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10/11(土)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/10
2025年、ノーベル生理学・医学賞が、大阪大学免疫学フロンティア研究センターの坂口志文特任教授、そしてアメリカのメアリー・E・ブランコウ博士とフレッド・ラムズデル博士の3名に授与され、大きな話題を呼んでいます。その受賞内容は、「免疫の暴走を防ぐ仕組み」を明らかにしたことにあります。本記事では、坂口教授の発見がどのようなインパクトを持つのか、そしてそこから広がる未来について解説していきます。
まず、免疫とは何かを振り返ってみましょう。免疫システムは「体を守る軍隊」に例えられることが多いです。体内に病原体が侵入したとき、パトロール隊が異物を発見し、司令官が「攻撃命令」を出します。実働部隊がこれを排除することで、健康が保たれます。
しかし、この司令官が「間違った攻撃命令」を出してしまうとどうなるでしょうか。実は、花粉症やぜんそく、1型糖尿病、関節リウマチなど、アレルギーや自己免疫疾患と呼ばれる症状は、まさにこの「誤作動」から発生します。なぜ、本来敵ではない花粉や自分自身の細胞を攻撃してしまうのか—この謎を解く鍵が、坂口教授の研究でした。
坂口教授のキャリアは、まさに「なぜ免疫が自分を攻撃しないのか」という問いから始まりました。1970年代後半、自己免疫疾患の謎を解き明かすべく、マウスの胸腺(T細胞が作られる臓器)を摘出して実験を重ねます。
ある日、胸腺を取り除かれたマウスに他のマウスからT細胞を補充すると、自己免疫疾患が起きずに済むことを発見しました。ここから坂口教授は、「免疫の暴走を抑える細胞が存在するのではないか」と着目します。
「免疫反応を抑える細胞=制御性T細胞(Tレグ)」の存在を突き止め、この仮説を証明するまでには、実に20年近い年月がかかりました。1995年に世界で初めて論文として発表した制御性T細胞は、免疫学の常識を根底から覆すものでした。
Tレグは、通常のT細胞と同じように様々な抗原(異物)を認識できますが、自己抗原(自分自身の細胞)に対しては特に敏感に反応し、その過剰な免疫応答を抑える働きを持っています。つまり、無用な攻撃命令をブロックし、免疫の暴走を防いでいるのです。
このTレグが機能しなくなると、体は自分自身を攻撃し始め、1型糖尿病や関節リウマチなどの自己免疫疾患、さらには重度のアレルギー症状が引き起こされます。
この坂口教授の発見を、さらに裏付ける出来事がありました。ブランコウ博士とラムズデル博士は、自己免疫疾患を発症しやすいマウスを調査し、その原因となる「Foxp3」という遺伝子の変異を発見します。この遺伝子が壊れると、制御性T細胞が作られず、免疫が暴走してしまうことが明らかになりました。
ヒトでもIPEX症候群という重篤な自己免疫疾患があり、これもFoxp3遺伝子の異常が原因でした。坂口教授は、Foxp3が制御性T細胞の「マスター転写因子」(細胞の運命を決める重要なスイッチ)であることを突き止め、この成果は2003年に論文発表されました。
坂口教授のグループは、制御性T細胞がどのように分化し、どのタイミングでFoxp3遺伝子が働き始めるのかを、ゲノムやエピゲノム(遺伝子発現の制御)レベルで解析しています。細胞の運命が決まる最初の瞬間に、どのようなスイッチが入るのか。この研究が進めば、将来的には体内でTレグを自在に増やしたり、逆に減らしたりする治療法が可能になるかもしれません。
近年、日本を含めた先進国では花粉症やぜんそくなどアレルギー疾患が急増しています。その理由の一つが、「Tレグの弱体化」にあります。衛生的な社会環境が進み、感染症が減ったことで、免疫システムを制御するTレグの刺激も減少。その結果、もともとアレルギー体質の人が発症しやすくなったと考えられています。
実際、Tレグを増やす治療によってアレルギー症状が軽減した事例も報告されています。また、IPEX症候群の患者に骨髄移植を行い、Tレグが再生されることで免疫が正常化するケースもあります。
また、がん細胞は本来であれば免疫システムによって排除されるはずですが、Tレグが過剰に働くとがん細胞への攻撃が抑制されてしまいます。現在、がん免疫療法の分野では「Tレグを一時的に減らす」ことで免疫の力を高め、がん細胞を攻撃しやすくする治療法の研究が進められています。
さらに、臓器移植後の拒絶反応を抑えるためにTレグを活用する試みも始まっています。例えば、1型糖尿病の患者からリンパ球を取り出し、インスリンを認識するTレグだけを増やして戻す—といった個別化医療も現実味を帯びてきました。
坂口教授の発見を基に、2016年には制御性T細胞の英名を冠した「レグセル株式会社」が創業され、創薬や再生医療の最前線で活発な開発が続いています。今や、制御性T細胞の研究は日本発のイノベーションとして世界中で注目を集めています。
授賞会見で坂口教授は「免疫の負の制御をどう実現するか」にこだわり続けてきたと語り、学生や共同研究者への感謝の言葉を述べました。その背景には「自己免疫疾患で苦しむ人たちに何とか手を差し伸べたい」という一貫した思いがあります。
今後は、ゲノム・エピゲノムのさらなる解析や、より安全で効果的なTレグ誘導治療の実現が期待されています。「普通のT細胞を制御性T細胞に安定的に変化させる」という夢のような技術も、決して遠い未来ではありません。
坂口志文特任教授の研究は、私たちの健康と直結する「免疫の暴走」を制御する仕組みを世界で初めて明らかにしました。その意義は、単なる新事実の発見にとどまりません。花粉症や糖尿病、がん、臓器移植といった多様な医療課題への新たな扉を開いたのです。今後、制御性T細胞を活用した個別化治療や予防法が一般化すれば、私たちの生活は大きく変わることでしょう。
制御性T細胞の存在を突き止めた坂口教授の功績が、ノーベル賞という形で世界に認められたことは、日本の科学界にとって誇りであり、今後の医療進化の大きな原動力となるはずです。