
所得倍増計画を執行した第58~60代内閣総理大臣...
10/11(土)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/09
「民主主義、平和主義を生かしてくれる青い鳥を探しに、慣れない空の旅を強行している。青い鳥は何処かにいるに違いない。」
この言葉を残した人物が、戦後日本初の社会党出身総理大臣・片山哲です。時代が大きな転換点を迎えた1940年代後半、理想を胸に抱きながら、現実の政治の荒波に翻弄された片山哲。その生涯を時系列に沿ってたどると、現代日本の政治や社会にとっても貴重な示唆が見えてきます。
1887年(明治20年)、和歌山県田辺町で生まれた片山哲は、父に厳格な弁護士・省三、母に敬虔なクリスチャン・雪江がいました。父からは「清廉」「足るを知る」など己を律する道を、母からは「恵まれない人々に対する強い愛」と「奉仕の精神」を学びました。その生まれ育ちが、後の片山哲の人格形成に大きな影響を与えたことは間違いありません。
1908年、東京帝国大学法科大学独法科に進学。キリスト教青年会(YMCA)寄宿舎では、後に社会運動の同志となる鈴木文治や、政治学者の吉野作造と出会い、社会正義や人権の思想に目覚めていきます。特に、「犯罪は社会の余弊(社会的弊害)なり」と説いた牧野英一教授の講義が、片山の進路を決定づけました。
「私の社会運動、社会事業方面に進んで行こうという心持に、理論的学問的根拠を与えてくれたのは、実に牧野先生の主観主義刑法である」
と語り、父と同じく弁護士の道を歩み始めるのです。
1912年、東大卒業後は一度郷里で父のもと法律実務を学び、1917年に上京して念願だった「貧困者のための簡易法律相談所」を開設します。「1件1円」での相談は、困窮する人々の強い味方となり、吉野作造の宣伝もあって大盛況となりました。中央法律相談所と改称した後は、雑誌を創刊して社会問題に積極的に取り組み、公娼制度や戸主制度の廃止、婦人参政権の必要性など、当時としては先進的な主張を展開していきます。
また、東京女子大学の講師としても、女性の地位向上や家族制度改革を説きました。女性の幸せを願い、社会の底辺に目を向けていたのは、母・雪江の影響が色濃く表れているのでしょう。
1920年代から日本は大正デモクラシーの波に揺れつつも、1929年の世界恐慌をきっかけに昭和恐慌へと突入します。生糸や米の値崩れ、農村の困窮、「娘を売る村」「欠食児童」などの社会問題が深刻化しました。片山はこうした現実に強い危機感を持ち、経済回復の目的は「一般民衆の生活向上」に置くべきだと考えました。
当時の政府は「高橋財政」により国家全体の経済再建を目指しますが、その恩恵は大企業や軍需産業に偏りがちでした。片山らは「下からの経済回復」、すなわち農村や労働者の購買力を底上げすることで景気浮上を目指す「民衆本位」を掲げ、現実的な政策提言で社会変革を志します。
1924年、無産政党準備会として政治研究会を結成。1926年には社会民衆党を立ち上げ、書記長に就任します。1930年、神奈川2区から初当選。1932年には社会大衆党が結成され、片山は中央執行委員・労働委員長に名を連ねます。
社会大衆党の特徴は「現実主義」でした。マルクス主義政党が階級闘争や革命を主張する一方、社会大衆党は「理論で飯は食えない」として、庶民の生活向上を第一に掲げます。片山自身も「現実的な制度改革こそ社会変革の道」と考え、弁護士時代に培った実践的思考を政治に活かしていきました。
1930年代半ば、日本は急速に軍部の影響力が強まります。陸軍省の『国防の本義と其強化の提唱』による「総力戦体制」思想が台頭し、社会大衆党内にも軍部協調派が生まれました。麻生久ら党幹部は軍部との連携を模索しますが、片山は議会制民主主義の原則を守る立場から、軍部の政治介入に強い危機感を抱きます。
片山は党内対立の中で穏健派の立場を貫きます。党の国家主義的転換にも表立った抵抗こそしませんでしたが、「国民生活の擁護」を主張し続け、戦争協力一辺倒ではない独自の道を模索し続けました。
1940年、立憲民政党の斎藤隆夫による「支那事変処理に関する質問演説」に対し、軍部と親軍派は除名を要求。社会大衆党でも処分を巡り党内対立が激化します。片山は安部磯雄、西尾末広らと共にこの除名に反対し、本会議を欠席する形で抗議。これが党主流の反発を招き、ついに片山ら8名は社会大衆党から除名されることになります。
この出来事は、戦時下の言論の自由と議会政治の本質を守ろうとする片山の原則的姿勢を象徴しています。除名後も片山は「十日会」などを経て活動を続けますが、1942年の翼賛選挙で落選し、いったん政界を退きます。
終戦後、GHQの主導で民主化が進むなか、1945年11月、日本社会党が結成されます。片山は書記長、翌年には初代委員長に就任し、「民主主義」「社会主義」「平和主義」を掲げて新しい日本の設計に挑みます。
1947年4月、新憲法施行直前の総選挙で社会党は第一党に。片山は民主党・国民協同党と連立し、第46代内閣総理大臣に指名されます。このとき、衆議院の首班指名選挙で420票という圧倒的な支持を集めました。世論調査でも支持率68%と、国民の大きな期待を背負っての船出でした。
片山内閣の象徴的な功績として、労働基準法や児童福祉法の制定、社会保険制度調査会の設置などが挙げられます。これらは現代日本の社会保障制度の礎として高く評価されるものです。
特に労働基準法は「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」と定め、憲法25条の「生存権」を現実の法律へと落とし込みました。児童福祉法は子どもの権利を保障し、社会保険制度調査会は国民皆保険・皆年金への道筋をつけました。加えて、内務省の解体や警察制度の民主化、教育改革、独占禁止法の施行など、社会の隅々にまで及ぶ制度改革が進められました。
こうした改革の背景には、GHQによる民主化指令がありましたが、片山内閣は「日本の現実に即した制度」として定着させるため、関係者との粘り強い対話と調整を続けました。
片山は決断が遅いと「グズ哲」と揶揄されることもありました。しかしその「遅さ」の背後には、「急進的な変革よりも、多様な意見を調整し、合意を形成することが社会全体の幸福につながる」という信念がありました。
石炭鉱業の国有化をめざした「臨時石炭鉱業管理法」に代表されるように、理想と現実の狭間で妥協を余儀なくされる場面も少なくありませんでした。炭鉱主や与党・野党からの反発、連立政権内の対立、党内左右派の分裂に苦しみながらも、片山は「自己犠牲、献身の崇高な一つの精神運動、道義高揚の運動」として政治を捉え続けました。
わずか9カ月で片山内閣は総辞職に追い込まれます。片山はその後の総選挙で落選し、社会党も大敗を喫します。失意の中で片山は欧米視察に旅立ち、その折に語ったのが冒頭の「青い鳥」の言葉です。
「民主主義、平和主義を生かしてくれる青い鳥を探しに、慣れない空の旅を強行している。青い鳥は何処かにいるに違いない。」
片山は現実の政治に失望しつつも、「どこかに理想の民主主義が存在する」と信じ続けていたことが伝わってきます。
1959年には日本社会党を離党し、翌年に民主社会党(民社党)を結成。晩年に至るまで、日中国交回復国民会議の代表委員として日中友好に尽力し、毛沢東とも面会しました。 1972年の日中国交正常化、1978年の日中友好条約締結に至るまで、片山の努力は脈々と受け継がれました。
政界を引退したときには、
「歳をとっても隠居せず、貧しくても官位を求めず、造化(天地自然)の力を求めるのみ」
と、白楽天の詩を引用し、老いても高い理想を持ち続けることの大切さを説きました。
そして1978年、90歳でその生涯を閉じるまで、片山は一貫して「民衆本位」と「平和と民主主義」の理想を追い求め続けました。
片山哲の政治人生は、理想と現実、理念と妥協、合意形成と決断の狭間で揺れ動きつつも、「民衆の幸福」という一貫した信念に貫かれていました。彼の残した「青い鳥はどこかにいるに違いない」という言葉は、短期的な成果や対立を煽る現代政治への警鐘でもあり、いま一度「時間をかけてでも合意形成に努める誠実さ」の大切さを問いかけています。
戦後日本の社会保障や福祉国家の基礎を築いた片山哲。その足跡を振り返ることで、私たちは「理想を捨てず、現実と向き合いながら社会をより良くしていく」――そんな政治のあり方を、今こそ考える時かもしれません。