
「逆境の順境は心の構え方一つでどうにでも変化する...
10/3(金)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/02
「もし日本に欠点ありとすれば、寧ろ謙譲に過ぎ、遠慮に失する」
日本初の本格的な政党内閣を率い、「平民宰相」と呼ばれた原敬が残した名言です。一見、控えめさや謙遜は日本人の美徳に思えますが、原敬は「行き過ぎた謙譲」が日本の成長や発展のブレーキになることを、鋭く指摘しました。
果たして、彼はどんな思いでこの言葉を発し、いかなる偉業を成し遂げたのでしょうか?今回は、原敬の生涯と信念、そして私たちが現代に学ぶべきポイントをご紹介します。
原敬は1856年、現在の岩手県盛岡市にあたる南部藩の上級武士の家に生まれました。しかし、戊辰戦争で藩が新政府軍に敗れ、家は没落。父を早くに亡くし、家族を支えたのは母・リツでした。
リツは、藩に課せられた莫大な謝罪金を、家財を売り払ってでも正直に納めるという、誠実で責任感の強い女性でした。また、どんなに貧しくても子どもたちの教育を諦めず、
「自分の利益よりも世の中のために」
「正直に、勤勉に、大局を見て行動する」
という価値観を息子に伝えました。
この母の教えが、後の原敬の人格や政治信条の原点となりました。
「私利を求めず、公利を重んじる」――この精神こそが、彼のすべての行動の根底に流れていたのです。
原敬は若くして司法省法学校に進学し、フランス語を学ぶなど優秀な成績を収めました。しかし、校長との対立や身分の壁などから退学を余儀なくされます。
挫折を経験しながらも、彼は「平民」として新聞記者や外交官など多様な仕事に挑戦。特に外交官としてフランス・パリや中国・天津で活躍し、国際感覚や語学力を磨きます。
この間、自由民権運動の指導者・中江兆民と出会い、フランス思想や「民意」「公利」の概念に触れます。原敬は、民衆の声を政治に反映させる「漸進主義(段階的な改革)」の重要性を学びました。
さらに、「大阪毎日新聞」の社長として、新聞発行部数を3倍に伸ばすなど、経営者としても手腕を発揮。報道を通じて社会の課題や人々の声に直接触れることで、より現実的な政治感覚を養いました。
みなさんは、「藩閥政治」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか?
原敬が首相になるまで、日本の政治は薩摩・長州など一部藩閥出身者が権力を独占していました。身分や家柄が重視され、国民の声が政治に届きにくい時代だったのです。
原敬は、この「藩閥政治」に強い反発を抱き、「能力と人格による登用」「派閥を作らず個人を重んじる」政治を目指しました。1897年に伊藤博文の勧めで立憲政友会に参加し、1902年には衆議院議員に初当選。以後、政友会のリーダーとして、多くの国民の意思を反映する政党政治の基盤づくりに尽力します。
そして1918年、ついに日本初の本格的な政党内閣を組織し、貴族や旧武士ではない「平民」出身として初の首相就任を果たすのです。その姿は、大正デモクラシーと呼ばれる「民意を重視する時代」の象徴として、国民から熱狂的な支持を受けました。
原敬が大切にしたのは、「国民一人ひとりが国家を重んじ、どんな立場の人も社会のために尽くす」という考え方です。
選挙での利益誘導(地元に有利な政策を約束して票を集めるような手法)は一切せず、全国民の幸福と国家全体の発展を最優先に据えました。
また、彼は「正義にかなった行為」としての「公利」を政治の軸とし、自己の利益よりも公共の利益を追求することを徹底しました。
この姿勢は、外交や内政のあらゆる場面で一貫して見られます。
原敬は外交官出身という強みを活かし、東アジアや欧米各国とのバランスある外交政策を展開しました。
特に、第一次世界大戦後の米国台頭をいち早く見抜き、従来のイギリス一辺倒からアメリカとの協調路線に舵を切ったことは、現代の日本外交の原点とも言えます。
また、列強による「帝国主義的価値観」が根強い中で、原敬は「力による支配」よりも「話し合いによる平和的解決」を重視。中国・山東省の権益問題でも、一度は日本の権益取得を主張しつつ、最終的には中国への返還を実現し、国際社会との信頼関係を築きました。
この柔軟かつ現実的な外交姿勢は、「武力でなく、対話と協調による平和の追求」という現代日本の基本方針にも通じています。
原敬が首相を務めた時代、日本国内では軍部の力が急速に強まっていました。しかし原敬は、軍事優先ではなく、あくまで「民意」を中心とした政治の実現にこだわりました。
たとえば、シベリア出兵(ロシア革命に干渉するための軍事行動)には当初から反対し、撤兵を主導。無用な軍拡を抑えて、国民生活や教育・産業に資金を振り分ける姿勢を貫きました。
残念ながら、原敬の死後、日本は再び軍部の影響力が強まり、やがて戦争への道を歩むことになります。もし彼が長く政治の舵取りをしていれば、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
1921年11月4日、原敬は東京駅で鉄道職員の青年に短刀で襲われ、命を落としました。
暗殺の理由は、物価高や社会の不満、普通選挙法への消極姿勢など、当時の政治への不満が背景にありました。
彼の死は、日本の政治に大きなブレーキをかけることとなり、以降、軍部の台頭と政治の混乱を招きます。しかし、原敬が残した「民意重視」「公利優先」「謙譲の行き過ぎを戒める」精神は、現代の日本社会においても色褪せることがありません。
原敬の人生やリーダーシップには、現代にも通じる多くのヒントがあります。
原敬は、「平民」出身として初めて首相となり、階級社会の常識を覆しました。「自分には無理」と思い込まず、学び続け、挑戦し続けることの大切さを教えてくれます。
一部の利益や派閥争いに振り回されず、「社会全体の幸福」「国民一人ひとりの声」を政治の中心に据える。その姿勢は、あらゆる組織やビジネスリーダーにも通じるものです。
原敬の名言は「控えめでいるだけでは、真の成長や変革は生まれない」というメッセージです。時には自信を持って意見を発し、行動する勇気が、新しい未来を切り拓きます。
「もし日本に欠点ありとすれば、寧ろ謙譲に過ぎ、遠慮に失する」
この一言に込められた原敬の思いは、いまを生きる私たちにも大きな示唆を与えてくれます。
身分や出自にとらわれず、一歩踏み出す勇気を持ち、努力と信念で道を開く。
原敬の人生と偉業は、「日本人の美徳」とされる謙譲の心に、もう一つ「自信と行動」の大切さを加えるよう、現代に問いかけています。
原敬の精神を胸に、より良い未来を切り拓く一歩を踏み出してみてください。