
19歳で歴史を動かした少女ジャンヌ・ダルク――ビ...
8/21(木)
2025年
SHARE
ビジョナリー編集部 2025/08/20
戦国時代のカリスマ、破天荒なリーダー、あるいは残虐な武将。メディアや歴史書で繰り返し語られる織田信長のイメージは、実に多面的です。
「新しい発想で既存の常識を打ち破る」
「時代の変革を自らの手で起こす」
信長の生涯には、現代のビジネス課題に直結する数々のヒントが詰まっています。本稿では、織田信長の人物像と功績を紐解き、ビジネスで活きる信長の思考についてご提案します。
織田信長は、現在の愛知県に生まれ、尾張国を支配する織田家の嫡男として育ちました。幼い頃から型破りな言動が目立ち、父の葬儀で抹香を投げつけるなどの逸話から「大うつけ(大馬鹿者)」と呼ばれていました。しかしその裏には、既存の価値観に縛られず、物事の本質を鋭く見抜く洞察力があったのです。
そんな信長が一躍その名を天下に轟かせたのは、1560年の桶狭間の戦いでした。当時、圧倒的不利と思われた今川の1割にも満たない兵で、4万人とも言われる今川義元の大軍を奇襲で討ち破るという大逆転劇を演じます。常識では勝てないと言われた戦に、独自の発想と大胆な行動で勝利したのです。
その後も信長は、美濃・尾張の統一、さらには全国への勢力拡大を進め、最終的には天下統一の礎を築きました。後に豊臣秀吉、徳川家康といった歴史的リーダーたちも、信長の元で成長し、日本史の流れを大きく変えることとなります。
信長の政策の中で、現代ビジネスに通じるのが「楽市楽座」です。従来の座(同業者組合)による独占を否定し、商人に税の免除や特権を与え、自由に商売できる仕組みをつくりました。これにより都市の経済活動は一気に活性化し、流通改革が進みます。
現代に例えるなら、規制産業に風穴を開け、新規参入やイノベーションを促進した規制緩和政策や、スタートアップ支援策に近い発想です。
信長は、日本で初めて本格的に鉄砲を大量導入し、長篠の戦いでは3,000挺の鉄砲で武田軍の騎馬隊を撃破しました。また、部下の能力を徹底的に見極め、豊臣秀吉や明智光秀など有能な人材を積極的に登用。成果主義的な評価制度をいち早く実践していたとも言えます。
現代に例えるなら、新技術の導入によるビジネスモデル変革や、タレントマネジメント、ダイバーシティ推進などに通じる手法です。
西洋から伝わったキリスト教や、地球儀・時計といった未知の文化・技術にも好奇心旺盛だったと言われています。既存の宗教勢力には厳しく対峙しつつも、キリスト教布教を許可し、西洋文化の吸収に努めました。
現代に例えるなら、グローバル化やデジタル・トランスフォーメーション(DX)への適応力、オープンイノベーションの重要性を先取りしていたと言えるでしょう。
信長の強みは、今までのやり方に安住しなかったことです。
信長は常に現状を疑い、新しい方法を模索し続けました。そして決断したらすぐに実行に移すスピード感。桶狭間の戦いも、瞬時の判断と行動が不可能を可能にしたのです。
信長は身分や出自にとらわれず、実力ある者には大きなチャンスを与えました。豊臣秀吉のような農民出身の人物も、能力次第で抜擢しました。
信長は新しい技術や異文化を積極的に取り入れる一方、従来の勢力には必要ならば強硬策も辞さない現実主義者でもありました。
革新的な信長ですが、そのリーダーシップには注意すべきポイントも存在します。
信長は時に苛烈な手段を取り、比叡山焼き討ちや一向一揆の徹底鎮圧など、敵対勢力には容赦しませんでした。この強硬路線は短期的な成果を生みましたが、同時に多くの恨みを買いました。最終的に、明智光秀の謀反=本能寺の変という形で組織崩壊に繋がります。
信長のスピードと変革の連続は、組織の現場に大きな負担も与えました。現代でも、急激な改革やトップダウン型の変革は、現場の理解や納得が追いつかず、離職やモチベーション低下を招くことがあります。
信長の数々の名言は、現代ビジネスにも通じる本質を突いています。
信長の生き方から得られる現代へのメッセージを整理します。
「常識にとらわれず、時代の変化を先取りし、自ら動く」
これこそが、織田信長が遺した最大のヒントです。あなたの会社やチームでも、信長の革新的な思考を取り入れてみてはいかがでしょうか?
きっと、これまでにない突破口や新しい成果が見えてくるはずです。