
「破天荒な研究者」北里柴三郎——ビジネスパーソン...
9/30(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/29
一万円札の顔に選ばれた渋沢栄一。皆さんは、彼がどのような人物かご存じでしょうか。「日本資本主義の父」という呼び名は有名ですが、彼の人生や考え方まで知っている人は意外と少ないかもしれません。しかし、現代を生きるビジネスマンにとって、彼の生き方や考え方から学べることはたくさんあります。
前編では、渋沢の功績を紹介し、渋沢の考え方を作った生い立ちを辿っていきます。
500社もの会社作りに関わったと言われる渋沢は、現代でも広く知られている数多くの会社作りにも携わりました。以下にその一部をご紹介します。
1840年、埼玉県深谷市で、渋沢栄一は裕福な農家の家に生まれました。子どものころから家業を手伝い、父親からは数字の見方や交渉の方法を、従兄からは論語などの学問や道徳を学んだことが、渋沢の考え方の柱になりました。
渋沢の家業は、着物などの染料として用いる藍の葉を育てて加工し販売する仕事に加えて、養蚕業も営んでいました。その経験が、後の富岡製糸場の設立担当へと繋がっていきます。
また、ペリーの来航をきっかけとして、渋沢は尊王攘夷について仲間と語り合い、深く傾倒していきます。そして国のためにという想いから、横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を企てるほどでした。この計画は別の仲間から説得をされて最終的に断念、大きな挫折を味わいました。
その後、地元を離れ、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に仕えることになります。ここから渋沢は、だんだんと日本の中心に関わるようになっていきます。
江戸幕府14代将軍の徳川家茂の死去により、一橋慶喜が15代将軍・徳川慶喜となることで、渋沢に大きな転機が訪れます。幕臣(将軍直属の家臣)となり、1867年、フランス・パリに渡ります。
ここで渋沢は、まさに「世界が変わる」経験をします。当時、パリ万博が開かれており、ヨーロッパの活気ある産業や、近代的な金融システム、人々の暮らしを豊かにするインフラなどを目の当たりにしました。「経済が社会を動かしている」という現実を渋沢は実感し、とても驚きました。
「なぜ日本には、このような活気がないのだろう?」
当時の日本は、財閥が経済を独占し、一般の商人や工業者はあまり儲けることができませんでした。
「人の幸せを作る仕組みは、利益を独り占めするのではなく、みんなに分けることではないか?」
この気づきが、渋沢の人生を大きく変えるきっかけとなりました。そして、明治維新により江戸は東京となり、新しい日本の国づくりが始まりました。渋沢も、新しい日本の「設計図」を描き始めたのです。
パリから帰った渋沢は、明治新政府から大蔵省への入省を要請されます。商法会所の頭取として経営を指揮していた渋沢は、幕臣であった自分が新政府に必要とされることに疑念を持ち、一度は辞退します。しかし、大隈重信に新しい日本を作るためにと説得され、入省することとなりました。
渋沢は、新しい貨幣制度をつくり、日本初の紙幣を発行したりと、国の重要な仕事を任されました。改革の中心メンバーとして活躍しましたが、政府内の有力者たちと意見がぶつかることも多く、大久保利通とは予算や権限を巡って対立しました。
こうした対立や、国家発展の方針の違いから、渋沢は官僚を辞めることを決意し、1873年に大蔵省を退職して民間の実業家として新しい道を進み始めます。
「一部の財閥や資本家だけが富を独占していては、社会は豊かにならない。多くの人が経済活動に参加できる場が必要だ」
そう考えた渋沢は、日本で初めての銀行「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)を作りました。さらに、冒頭でも紹介した、私たちの生活にも関わる多くの会社を「合本主義」という考え方のもとで次々と立ち上げました。
「合本主義」とは、全員の利益を考え、目的に合った人材とお金を集めて事業を進めるという考え方です。
後編では、渋沢栄一がビジネスを通して現代に残した大切な考え方を紹介していきます。