
「破天荒な研究者」北里柴三郎——ビジネスパーソン...
9/30(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/29
前編では、渋沢栄一の功績と生い立ちを紹介しながら、渋沢が「日本資本主義の父」として活躍を始めるところまでを紹介しました。後編では渋沢の功績を通して、現代にも通ずる考え方のポイントを紹介していきます。
渋沢の商売に対する考え方は、
「商売は利益を上げて社会を豊かにする。しかし、道徳を忘れてしまうと長続きしない」
というものでした。
この考え方はとても新しいものでした。当時の日本では、「商人は自分勝手」「政治家や武士が立派」という考えが強かったのです。しかし渋沢は、商人の才能と武士の心、いわば「士魂商才」を持つことが本当のリーダーに必要だと考えました。
たとえば、銀行を作った理由も、「多くの会社が資金を集められる場所を作ること」が目的だったのです。財閥系の金融機関が財閥内部での資金調達を目的としていたのとは異なり、世の中全体で資金を回し、豊かにしていくことを目的にしていました。
利益を追い求めるだけでなく、事業がどれだけ人々の生活を良くするか――その社会的な価値を渋沢はいつも考えていました。
渋沢が関わった事業はとても幅広いです。鉄道、ガス、製紙、保険、ビール、ホテルなど、なぜこれほど多くの分野で成功できたのでしょうか。
その理由は、世界の最先端を自分の目で見て、「日本にはまだないけれど、これから絶対に必要になるもの」を素早く取り入れたことにあります。たとえば、鉄道が日本では「危ない」と思われていた時代も、渋沢はヨーロッパでの経験から鉄道の便利さや安全性を確信し、インフラ事業の大切さを伝え続けました。
また、「自分一人で全部やる」のではなく、多くの優秀な仲間を集め、その力を十分に発揮できるように「話し合いによる経営」にも力を入れました。激動の時代で多くの人材が失われる中、渋沢は「人とのつながり」を一番大事にし、誰もが活躍できる場を作ったのです。
大蔵省の出身であり、資金集めのノウハウを持ち合わせた渋沢は、実業家としての実績も合わせて、「渋沢先生が関わってくれるなら安心」という存在になっていました。渋沢は裏での利害調整などのサポートにまわり、有望な人材に経営を任せることで、人材を育てたかった想いもありました。
渋沢栄一はビジネスで成功するだけではありませんでした。教育、医療、福祉、国際交流など、生涯に600以上の社会事業にも関わりました。その代表例が「東京養育院」(現在の東京都健康長寿医療センター)です。渋沢は子どもたちに「自信を持って社会に出なさい」と声をかけ、91歳で亡くなる直前まで施設を訪れていました。
1923年の関東大震災では、すぐに被災者への炊き出しや仮設病院の設置を指示し、自ら現場に立ち続けました。「利益は社会のために使う」という信念が、渋沢の行動からよく分かります。
現代では「SDGs」など社会との共生が大切だと言われていますが、渋沢は100年以上前から、利益と皆の幸せの両立を当たり前のこととして実践していました。
会社の利益と社会貢献の間で悩んでいたり、「自分のためだけの仕事」にむなしさを感じているのなら、渋沢が残したメッセージを思い出してみてください。
渋沢は、争いの多い時代でも「話し合い」と「協力」「皆の幸せ」を信じ行動しました。彼の志は、今の時代にも大切な道しるべとなるでしょう。
時代や環境が変わっても、「仕事とは何か」「なぜ働くのか」という大切な問いは、私たち一人ひとりに投げかけられています。渋沢は、その答えを自分の人生で示しました。
「利益と道徳」。「個人と社会」。「競争と協力」。
これらは反対のものではなく、本当は一緒に歩むべきものなのです。
「士魂商才」の旗を掲げて、全員が幸せになる社会を目指して歩み続けた渋沢の生き方は、今も私たちを励ましてくれます。
「会社のため」「自分のため」だけでなく、「社会のため」に働く。その気持ちこそが、自分の人生と社会の両方を明るくする――渋沢栄一の生き方は、そう教えてくれます。
一万円札の顔を見てみてください。
そこには、利益の先に誰かの幸せを見つめる、未来へのまなざしがきっと刻まれているはずです。