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ゼロからの市場開拓——269倍の成長を支えた「獣医師の推奨」と私の信念
越村 義雄 2026/07/06
日本コルゲート・パルモリーブ(当時の社名)で私がペットフード事業を選んだとき、ビジネスは非常に小さな状況からスタートしました。当時はアメリカから製品を輸入していたのですが、社内の人員が限られていたため、まずは日本国内での強固な販売の仕組みづくりが急務でした。そこで、販売会社として総代理店を立てる戦略をとりました。病気の犬猫を対象とした特別療法食(療法食)の販売は森永乳業さんの系列である森乳サンワールドさんへ、そして健康な犬猫用の「サイエンス・ダイエット」はセルウェルさんへそれぞれお願いし、本格的な展開を模索し始めたのです。
実は、この「療法食」というカテゴリー自体、ヒルズが1948年に世界で初めて開発した製品群です。しかし、当時の日本にはまだそのような概念が定着していませんでした。いくら私たちが「この製品は素晴らしい」とアピールしたところで、新しい食事療法の価値を簡単には信用してもらえません。やはり、飼い主様から最も信頼されている「プロフェッショナルである獣医師の先生方」がその価値を認め、自ら使って推奨してくれる環境を作ることこそが、最大の近道であり本質であると考えました。
そこで私は、森乳サンワールドさんのサポートも受けながら、開業獣医師の先生方を集めたセミナーの全国展開に乗り出しました。アメリカから高名な専門医を招聘し、通訳を介して小動物の臨床栄養学についての講義をしてもらうところから地道にスタートしていったのです。
さらに決定的な転機となったのが、1985年に世界小動物獣医師大会が日本の京王プラザホテルで開催されたときのことです。当時、日本には16の獣医大学(現在は17大学)がありましたが、そのすべての大学の先生方を隣のハイアットリージェンシーホテルにお招きし、小動物の臨床栄養学に関する大規模なシンポジウムを開催しました。
その後、各大学の先生方の同意をいただきながら、さらに未来を見据えた草の根活動へと移行します。将来獣医師となる学生たちに、学生のうちから臨床栄養学を学んでもらおうと考えたのです。私はアメリカの講師陣とともに、毎年全国16の獣医大学をくまなく回って講演をサポートし続けました。この地道な教育支援活動こそが、学生たちが社会に出たときに「ヒルズの製品を使おう」という流れを生む、確固たる基盤となりました。
日本の獣医師の先生方に製品の科学的根拠を深く理解していただき、自らの言葉で推奨してもらう。この「獣医師の推奨」を中心とした愚直なマーケティングが功を奏し、初年度はわずか1億円程度だった売上は、驚異的な成長を遂げました。
私が社長としての最終年である2009年には、売上高269億円、営業利益90億円を計上するまでに至ったのです。実に269倍の成長です。私が社長として在任していた期間の後半、2006年から2009年は、業界トップの推奨ブランドとして、金額シェアでもナンバーワンの座を獲得し続けることができました。
しかし外資系企業の常として、トップが変わるとその方針が一変してしまう危うさもあります。私の後に就任した歴代の社長たち(アメリカ、オーストラリア、日本、ヨーロッパ出身の計4名)は、「ここまでブランドが育ったのだから、わざわざ手間をかけて大学や獣医師の先生、動物看護師の方々のペットに大量のサンプルを配ったり、頻繁にセミナーを続けたりしなくても売れるだろう」と驕(おご)り、私が長年築き上げてきた獣医師や大学との核となるリレーションプログラムを止めてしまいました。
当然、競合他社であるロイヤルカナンさんなどがその隙を見逃すはずはありません。ヒルズが築いた大学や病院のネットワークへ猛然とアプローチを開始し、結果としてヒルズのシェアは徐々に落ちていくこととなります。歴代の社長たちは短期間で交代を余儀なくされましたが、効果的なプログラムを継続することの重要性と、現場への驕り高ぶりがもたらすリスクを、私自身も外から複雑な思いで見つめていました。
2009年に社長を退任して以降、私はヒルズのビジネスからは完全に離れましたが、同年にペットフード協会の会長を引き受けることとなりました。そこから、「これまでに人がやったことのない新しい仕組みを作りたい」という持ち前の情熱を、ペット業界全体の発展へと注ぎ込むようになりました。
振り返れば、2009年から「インターペット」の立ち上げを模索した際も、既存のジャパンペットフェアを運営するペット用品工業会さんなどからの強い反発があり、大変な生みの苦しみを味わいました。しかし、中長期的な大義を信じて道を拓いてきた経験は、今のすべての活動に繋がっています。次回は、その当時の激しい葛藤と、それをいかにして乗り越えてきたのか、具体的なエピソードをお話ししたいと思います。


