「最初の3年は頭を横に置け」——JACリクルート...
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30歳での外資転身と、ビジネス人生を賭けた「ストーリー」との出会い
越村 義雄 2026/07/07
私が30歳で外資系の日本コルゲート・パルモリーブ(現在の日本ヒルズ・コルゲート)へ転職したのは、1978年6月のことでした。前職のNTT系列の会社から、息子が生まれた直後に「ナイジェリアへ2年間駐在してくれ」と打診され、家族の未来と、新たな先進国ビジネスへの挑戦を天秤にかけ、悩んだ末の決断でした。消費財を扱った経験は全くありませんでしたが、2カ月ほどかけてさまざまな方と面接を重ね、最終的にオファーをいただいたのです。
入社当初は、ペット事業、スポーツシューズ(エトニック)、そして世界シェア1位でありながら日本国内ではライオンさんがダントツだった歯磨き粉という、毛色の違う3つのビジネスすべてに関わっていました。当時は花王石鹸さん(現在の花王)と5億円ずつを出し合い、資本金10億円で「花王コルゲートオーラルプロダクツ」という合弁会社をスタートした時期でもありました。
その中で、花王の丸田芳郎社長や佐川専務、そしてコルゲートのトップが集まる会議に、通訳のサポートを兼ねて出席させてもらう機会がありました。そこで痛感したのは、出資比率50対50(フィフティ・フィフティ)の合弁会社運営の難しさです。双方が対等であるがゆえに、互いの主張をぶつけ合ってしまい、なかなか話がまとまらない。「経営とはどちらかが51%以上の株を持ち、主導権を握らなければいけないのだな、こうした出資比率の合弁はうまくいかないのだな」と、実際の会議の場にいて身をもって学ばせてもらいました。
その後、1985年に社内で事業部制が導入される際、「どれを選ぶか最初に権利をあげます」と言われ、私は迷わず当時一番小さかった、ペットフード事業を選択しました。当時はダイワ精工さんに流通してもらっていたスポーツシューズ事業の方が売上も大きく、世の中のスポーツブームもあって好調でしたが、私にはペットフードの未来の方に、強い魅力を感じられたのです。
なぜなら、私たちが扱うヒルズの製品には、他社にはない圧倒的な「ストーリー」がありました。ブランドの世界ではよく、ストーリーがあるブランドは非常に強いと言われますが、ヒルズもまさにその通りでした。
当時、アメリカに腎臓疾患を患った「バディ」という盲導犬がいました。そのバディを救うため、マーク・モリス博士がタンパク質と塩分を控えた特別な食事を手作りで与えたところ、バディは腎臓疾患をマネージすることができたのです。しかし、ずっと手作りを続けていくのは難しいため、博士はカンザス州にあったヒルズ社のバートン・ヒル社長に製造を依頼しました。これが、1948年に世界で初めて誕生した特別療法食ヒルズの「プリスクリプション・ダイエット」の始まりです。
さらにヒルズは1968年、今では当たり前となっている子犬・成犬・高齢犬といった「ライフステージ」という概念を確立したヒルズの「サイエンス・ダイエット」を世に送り出します。「動物の健康を守る」という明確な使命とストーリーのあるブランドに、私は専念して取り組むことを決断したのです。


