「最初の3年は頭を横に置け」——JACリクルート...
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社会人のスタートと、挑戦を支え続けた父との別れ
越村 義雄 2026/07/03
私が大学を卒業し、最初に就職したのはNTTの海外コンサルティングを担う会社でした。主に発展途上国における電気通信網のインフラ発展をサポートする業務でしたが、海外の方と協働するこの職場で、私はある一つの目標を立てました。「英検1級」の取得です。
当時、その会社には英検1級を取得すると5万円の報奨金が出るという制度があり、それが一つのモチベーションになりました。当時の英検1級といえば合格率がわずか3%程度、100人が受験して3人しか受からないと言われた時代でしたが、幸いにも試験に合格し、報奨金をいただくことができました。
これほど英語に打ち込むようになった背景には、やはり大学時代の苦い経験があります。かつて熱中していた卓球の道で、日本チャンピオンの圧倒的な壁に打ちのめされ、「卓球では食べていけない」と痛感した私は、これからの時代を生き抜くために語学の力を身につけようと決意したのです。英語を習得することそのものが目的ではなく、強力な武器になると確信し、大学2年生から英語研究会(ESS)に入って勉強を始めました。
当時は「海外の人とコミュニケーションを取りたい」という一心で、とにかく貪欲に行動しました。英語弁論大会の原稿を書いた時期などは、山手線などの電車内で外国人を見かけると、たとえ見ず知らずの相手であっても「今、お時間よろしければ、ちょっと原稿を見てもらえますか?」と積極的に声をかけていきました。中には「今夜暇か?」と誘ってきたり、握手をする際に爪を立ててきたりする少し危ない雰囲気の人もいたため、もちろんそれは断りましたが、外国人を怖がることなく手当たり次第にアドバイスを求めにいったものです。新潟にいた頃は大人しい子供だったのですが、東京に出てきて様々な刺激を受けたことで、色々な人と積極的に話す学生へと変わっていきました。
こうした私の挑戦を、両親はいつも温かく見守ってくれました。我が家の教育方針は、子供が興味を持ったことに対して背中を押し、自由にサポートしてくれる、本当にありがたい環境でした。卓球で勝ったときも、大学の弁論大会で優勝したときも、両親は非常に喜んでくれました。その顔が見たいからこそ、「もっと両親を喜ばせたい、もっと英語力を伸ばそう」と、さらに努力を重ねることができたのだと思います。
しかし、社会人として歩み始めた矢先、私を大きな悲しみが襲いました。父が、私が大学を卒業した翌年の1971年、体を壊して入院し、息を引き取ったのです。初任給で、父に大好きなお酒をプレゼントしたばかりのことでした。
今にして思えば、胃潰瘍を患った後にすぐに手術をすればよかったのですが、入院期間が長引いたことで体力が落ち、弱ってからの手術となってしまいました。東京から急いで戻り、父の手を握り術後を見守りましたが、父は手術の翌日にそのまま亡くなってしまいました。大学を卒業して就職し、1年も経たないうちのあまりに早すぎる別れでした。
社会人になり、これから一人の男として、父から色々なことを学びたいと思っていた矢先の出来事。あまりにも突然の喪失に、当時は非常に残念で、精神的にも少し不安定になっていきました。
この大きな心の傷をどうにか克服し、心を強く保ちたいという思いから、私は様々な本を読み漁るようになりました。様々な偉人の伝記や、精神的に強くなるための書籍を読み進める中で、かつて学生時代に恩師から言われた「強く思うことの大切さ」を改めて学び直しました。
また、作家の吉川英治氏の言葉として知られる「我以外皆我師也」という教えにも感銘を受けました。自分の周囲にいる人は、本も含めてすべて自分に何かを教えてくれる師である、という考え方です。この経験を経て、私は「誰からでも、どんな状況からでも学ぼう」という謙虚な姿勢と、人のアドバイスによく耳を傾けることの大切さを、人生の確固たる指針として心に深く持ち続けるようになりました。


