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2025

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    「破天荒な研究者」北里柴三郎——ビジネスパーソンが学ぶべき信念と行動力の物語

    「破天荒な研究者」北里柴三郎——ビジネスパーソンが学ぶべき信念と行動力の物語

    江戸時代の終わりごろ、熊本の小さな村に一人の少年が生まれました。その名は北里柴三郎。「近代日本医学の父」と呼ばれる彼が、どのようにして世界の医学史を変え、紙幣の顔になるほどになったのか。その道のりをたどりながら、彼の考えや生き方が現代にどのようにつながっているのかを探っていきます。

    反発から始まった物語――「医者なんて、やりたくなかった」

    1853年、熊本県阿蘇郡小国町で、武士の家に長男として生まれた北里柴三郎は、子どものころから剣術に夢中で、「自分は強い武士になるんだ」と信じていました。しかし、父はこれからは医学が大切になると考え、柴三郎に学問の道を進んでほしいと願い、幼いころから漢方医だった伯父の家に預け、漢学やオランダ語を学ばせました。それでも柴三郎は

    「医者や坊主にだけはなるまい」

    と言い張り、頑固に武士道にあこがれていました。
    しかし、明治維新で時代が大きく変わります。武士の時代が終わり、父は「これからは学問だ」と、熊本医学校(今の熊本大学医学部)への進学をすすめました。しぶしぶながらも、「オランダ語を学べば、何か新しいチャンスがあるかもしれない」と考えて入学を決めましたが、最初は語学に熱中し、医学そのものにはあまり興味を持てませんでした。

    そんな柴三郎の運命を変えたのが、熊本医学校にいたオランダ人医師のマンスフェルトとの出会いです。「君のように一生懸命な学生には、研究者の道が合っている」と励まされ、顕微鏡で初めて見る未知の細胞の世界に大きな衝撃を受けます。家での個人授業や、夜遅くまで続く語学と科学の話し合い。その情熱が、少しずつ柴三郎の心を動かし始めました。

    「立派な研究者になりたければ、東京で学び、いつかヨーロッパに行きなさい」

    マンスフェルトの言葉が、柴三郎の進む道を大きく変えることとなりました。

    「国を医する」と決意した肥後もっこす魂

    東京医学校(今の東京大学医学部)に進学した柴三郎は、多くの学生が「エリート」と呼ばれる中で、型にはまらない自由な学生でした。寮監を言い負かしたり、いたずらで先生を困らせたり、仲間と夜遅くまで議論を重ねたりしていました。

    1877年、日本中でコレラや天然痘などの伝染病が流行し、多くの人が亡くなりました。柴三郎自身も、弟2人と妹を続けて失いました。柴三郎は「病気になってから治すのではなく、どう防ぐかが医者の大事な役目だ」と強く決意し、

    「国を医する(国を丸ごと治療する)」

    という大きな目標を持ち、予防医学を生涯の仕事にしようと心に決めました。

    8年間勉強を続けて卒業した後、あえて臨床医ではなく内務省衛生局を選び、衛生行政の道に進みました。「御し難き者(コントロールしにくい者の意)」として上司からは敬遠されましたが、権威にこびず、自分の信念に従って行動し続ける姿は、「肥後もっこす」(頑固な熊本人気質)そのものでした。

    コッホのもとで、世界のキタサトへ

    1886年、内務省の費用でドイツに留学し、細菌学で有名なコッホの研究室に入りました。柴三郎はドイツ語に苦労しながらも、「破傷風菌の純粋培養」という難問に挑みます。当時、破傷風はかかると命を落とすことも多く、治療法はありませんでした。
    その後、国から帰国命令が出ても、「細菌学は1年や2年で学びきれるものじゃない」と、留学期間を6年まで延ばしました。冷たい目で見る人もいましたが、彼の粘り強さと信念が大きな成果を生みました。

    柴三郎は破傷風菌が酸素の少ない環境で増殖することを発見し、専用の培養装置を開発しました。そして、1889年に世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功。その後、破傷風菌の毒素を中和する抗体(抗毒素)を発見し、動物の免疫を使った血清療法も確立しました。これによって、今まで治す方法がなかった感染症に新しい光が差しました。現地の新聞も「東洋から来た男が医学の常識を変えた」と大きく報じました。

    しかし、栄光の裏には苦い現実もありました。共同研究者のベーリングがジフテリアの血清療法でノーベル賞を受賞したのに対し、柴三郎は候補になっただけで受賞はしませんでした。ヨーロッパの医学界の偏見や、日本国内の学閥争いやサポート不足も理由だと言われています。それでも柴三郎が腐ることはありませんでした。

    権威に屈せず、実学と現場主義を貫く

    帰国した柴三郎を待っていたのは、学閥や省庁間の確執でした。そのような中で柴三郎を助けてくれたのが、実業家の森村市左衛門や、思想家の福澤諭吉でした。福澤は自分の土地を提供し、森村は設備資金を出してくれました。こうして1892年、「私立伝染病研究所」が芝公園の一角にできました。
    柴三郎は研究環境を整えるだけでなく、若い人たちの育成にも力を入れました。志賀潔が赤痢菌を発見し、野口英世が世界的に有名になったのも、柴三郎の厳しくも温かい指導があったからこそです。志賀は「ほとんど柴三郎先生の指示通りに動いただけだった」と語っていますが、「論文は自分の名前で出しなさい」と、弟子に惜しみなく名誉を譲りました。

    伝染病研究所の設立からわずか1年で、結核専門の「土筆ヶ岡養生園」も開院し、結核と闘いながら公衆衛生の大切さを社会に訴え続けました。さらに1894年には、香港でペスト菌も発見し、日本の感染症対策を世界レベルに引き上げました。
    1914年、伝染病研究所が文部省の管轄になったとき、柴三郎は抗議して所長を辞め、すぐに私立の「北里研究所」を作り、現場主義や実践を重んじた研究を続けました。

    柴三郎の活動は医学だけでなく、教育や社会活動にも広がりました。福澤諭吉への恩返しとして、慶應義塾大学医学部の創設に尽力し、無給で初代医学部長を引き受け、「実践と社会貢献の大切さ」を若い医師たちに伝えました。
    1923年には日本医師会をつくり、初代会長に就任。医師の専門性向上や公衆衛生の発展を目指して医療界の改革にも取り組みました。

    「信念と実践」が未来を切り開く

    柴三郎が大事にしていたのは、「医者の使命は病気を予防することにある」という信念でした。彼は感染症と闘う中で、「清潔な環境」「正確な診断」「適切な隔離」という三つの原則を作り、社会に広めました。
    実際、柴三郎が考え出した血清療法や抗体の考え方は、今のワクチンや感染症対策の根幹になっています。新型コロナウイルスが広がったときにも、彼の考え方が日本の医療を支えました。

    北里柴三郎の人生は、「信念を持って行動すること」の大切さをはっきりと示しています。時代の常識や権威に流されず、自分の目で現場を見て、苦しんでいる人々のために力を尽くす。そこに、社会を変える力があります。

    「学問は世界に通じるものであり、国境など存在しない」

    この柴三郎の言葉は、今を生きるビジネスパーソンにもそのまま当てはまります。古い考え方にとらわれず、世界を舞台に挑戦し続けることが、未来を切り拓くカギです。困難な場面に立つビジネスパーソンこそ、北里柴三郎の生き方から新しいヒントを見つけてほしいと思います。

    #北里柴三郎#ビジネス#リーダーシップ#自己啓発#医学#感染症#イノベーション#社会貢献#歴史#SDGs

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