
社会を「丹(あか)と青」の豊かな色で鮮やかに彩る...
7/7(月)
2025年
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楠本 修二郎 2025/07/03
前回は、父の一言から西戸崎・海の中道に引っ越した話をお伝えしました。
現在、西戸崎の外海側には「海の中道公園」があります。この外海は、白浜が10キロほど続くとても美しい浜辺ですが、当時は米軍基地として使用されており、私たち日本人が立ち入ることは禁止されていました。幼い私は、それがとても不満でした。
ここは、かつて朝鮮戦争の最前線基地であり、さらに遡れば、元寇の際に重要な防衛拠点とされた「崎守(さきもり)」の地でもあります。また、西戸崎と陸続きの志賀島には、1600年以上の歴史を持つ志賀海神社があり、その宮司を務めるのが阿曇(あずみ)一族。阿曇家は神話にも登場する、かつて海を支配していた名族で、志賀島は日本の“海外の玄関口”であり“防波堤”だったのです。
しかし、私が住んでいた1970年代には朝鮮戦争はすでに終結しており、米軍基地はほとんど使われていませんでした。残っていたのは朽ちかけた米軍住宅など、使われなくなった建物だけ。私はそうした様子を見て、「あの外海で泳ぐばい!」という情熱に駆られ、友人たちと何度も匍匐(ほふく)前進で基地に忍び込んでいました。けれど、米兵に見つかってはつまみ出される日々でした。
そんなある日、ついに見つからずに外海まで到達!大喜びで基地内をアジトにして遊びました。「Don’t Swim(ここで泳ぐべからず)」という貼り紙も無視して、思いっきり海へ飛び込みました。けれどそれは、潮流による危険を知らせる警告でした。私は一瞬で潮にさらわれ、命を落としかけるほどの体験をしました。
日が暮れ始めると、夕日が差し込んで朽ち果てた米軍住宅を照らし、何とも言えない美しい空気感を醸し出していました。この感覚こそが、のちに私が“ユーズド感”のある空間に惹かれていく原体験だったように思います。
また、志賀島の頂上に登ると、「あちらは朝鮮半島、こっちは中国、向こうは香港、そしてさらに先にはアメリカがある」と、世界を肌で感じることができました。そんな景色を見ながら、「いつかこの海を越えてやる」という気持ちを強く抱くようになったのです。
BEAMSの設楽さんには「僕はファッションがやりたかったんじゃない。西海岸を持ってきたかったんだ」という有名な言葉があります。渋谷に吹き込んだアメカジ文化──ビームスやハリウッドランチマーケットなどが運んだ“西海岸”の空気。私もまったく同じ思いでした。のちに「アメリカをつくりたい」のではなく、「アメリカ西海岸をはじめ、アジアの雑踏などさまざまな場所のカルチャーを混ぜ合わせたカルチャーのアトモスフィア(空気)を生み出したい」と思って会社を興すのですが、その原点は、この米軍基地で過ごした日々にありました。
こうして海での経験が、私という人間を形づくっていったのだと思います。気づけば、この場所が心から好きになっていました。最初は転校生として、荒くれ者たちからいじめを受ける立場でしたが、その中をくぐり抜け、やがて“裏番長”的な存在になっていきました。
しかしようやく楽しくなってきた頃、うちの無計画な父がまたしても突飛なことを言い出します。
「やっぱり前の家に戻る」と。
兄の修猷館高校受験のためという理由でしたが、小学5年生の終わりだった私は、「ふざけるな!」と猛反発したのを、今でもはっきりと覚えています。