
社会を「丹(あか)と青」の豊かな色で鮮やかに彩る...
7/17(木)
2025年
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楠本 修二郎 2025/07/08
新卒で入社したリクルートコスモスですが、わずか2ヶ月半でリクルート事件が勃発し、私の環境は一変しました。
最初は、なんて自分は不幸なんだろう。リクルートコスモスを選ばなければよかった。住友信託銀行だったらどれだけいい毎日だったか…などと思っていました。
でも、しんどい経験を繰り返すうちに、毎日が臨戦体制になり心身ともに環境への耐性が宿ってきました。その感覚を実感できるこの環境に身を置かせていただいていることに感謝し、「自分はラッキーかもしれない」と、考えが変わってきました。弁護士の先生からも、こんなふうに言われました。「君ね、若いうちから、こうやってトラブルに巻き込まれて大変だなと思うよ。でもさ、たいしたことないよ。君、一生トラブルに巻き込まれるタイプだから」。
その言葉を聞いて、大変なことが起きるのは嘆くことではない、人生に与えられた課題や宿題であり、人生のテストなのだと思うようになっていました。そして夜な夜な深夜1時、空に向かって星を見上げ、「ありがとうございます」と言って帰路につくようになりました。それからだんだん、自分の置かれた状況が楽しくなっていきました。私はあまりゲームはやらないのですが、ゲームというのは、1面をクリアすると、また次のクリアすべきステージが出現します。毎日がそのような感覚になっていきました。「今日をクリアしよう、そうすればまた、明日は明日のステージがやってくる」。明日は、普通に過ごしていてもやってきますが、当時はそういう感覚はありませんでした。「今日を、クリアしなければ」。つまり、日常が日常ではなく、「自分が主体となってクリアしていかなければ、日常はないんだ」という感覚です。その結果、自身を訓練することができたと思っています。
また当時は、営業も経験しました。気づけば3年間、リクルート事件を担当していたのですが、その間に多くのことが起き、最終的に1990年3月、金融機関の不動産融資に対する総量規制が導入されました。今でいう「金融庁が“蛇口”を閉めた」という状態です。これが起因となり、不動産価格は急下落、俗に言うバブル崩壊へと向かっていきます。
しかし、そもそも私は、商業をやりたくてリクルートコスモスに入社したのです。それは、学生時代の強烈なる記憶があるからでした。飲食店をやりたいという人が集まる場を作る。それによってその場の価値が上がる――そういうことがしたかったのです。
ところが、広報室への配属から様々な紆余曲折を経て、入社して3年が経つ頃、社長から「しゅうちゃん、君は、そろそろしっかり事業をやりなさい」と言われ、その後人事部から営業部への配属を命じられました。「いや、私は商業をやりたくて入ったんですよ」と抗議しましたが、「これから先、うちの会社で商業なんて、できるわけがないでしょう」と言われてしまうことに。
これにはショックを受けましたが、そのときには会社の事情も世の中も激変していることは理解していたので、納得はできました。営業への配属も人事命令ですから、受け入れざるを得ません。
しかし、自分がマンションの営業をやるなど、考えてもみなかったことでした。資産運用や、土地の企画をやろうと思っていたからです。ともあれ、新宿支社に配属され、最初は残庫(売れ残り物件)の販売につきました。埼玉県の坂戸の先にある、駅から徒歩15分のマンションで、総戸数15戸中6~7戸も残庫があるという物件でしたが、土建屋さんに土下座をしたりと、がむしゃらに動き、結果全ての残庫を売り切りました。
続いて、新築物件を任されました。大宮の少し先の加茂宮(かものみや)というところにある新築物件で、総戸数180戸。この時には、すでにバブルの崩壊の予兆があったため「大丈夫か…」と嫌な予感はしていました。しかし、この物件を売るためには、何でもやらせてもらえたので、勉強になりました。ここで失敗すれば、大きな金利負担がのしかかる。しかし、成功すれば、社として大きな利益となるのです。物件の値付けから宣伝、企画、何から何まで全て自分で決めることができたため、非常にやりがいがありました。