
社会を「丹(あか)と青」の豊かな色で鮮やかに彩る...
7/7(月)
2025年
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楠本 修二郎 2025/07/05
上京初日、兄に六本木のライブハウスに連れて行ってもらいました。私が惚れ込んでいた「海外」が、そこに広がっていました。当時の私は、一にも二にも海外というくらい、海外への憧れが何より強かったのです。志賀島の山の頂上から見た海の眺めとタンカーの眺めが風景としてこびりついていました。六本木交差点の「Mr. JAMES」は、カントリーとブルースのライブハウスでした。私はそこで、「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」や、柳ジョージ&レイニーウッドを聴きながら育ち、「ここが自分の居場所だ」と強く思っていました。そしてそこでバーテンダーとして働き始めて、歌わせてもらっていました。ウィリー・ネルソンやイーグルス、ドン・ヘンリーの歌などを、毎夜歌っていたものです。
また、早稲田大学の企画サークルの代表も務めていました。今思うと、ほとんど学生起業に近い形です。そこでやっていたことは、六本木でのお仕事と企画、あとは先に述べたような「いたずら」です。『何か面白いことを企てて実行する』ということを、ずっと行ってきました。
中には、パーティーを企画開催する仕事もありました。当時は、マハラジャを貸し切りにしたり、ディスコを貸し切りにしたり、といった学生パーティーブームでした。インターカレッジの人たちから、「別の企画団体もやらない?」と訊かれれば、「やります!」と即答し、ショーパブや、レゲエのライブハウスでやるイベントを企画したり、雑誌の編集や企画の仕事などもしました。
さらに、レゲエのライブハウスを起点として、キリンビールの協賛を受け、「第1回レゲエ・ジャパン・スプラッシュ」というイベントに参加しました。このイベントは、後に10年続く大イベントとなり、レゲエの一大ブームを巻き起こしたのです。このときの経験から、『たった一軒のお店でも、ものすごくカッコよくオンリーワンのものを作れたら、そこから派生するパワーはすごいのだ』ということを、身をもって学びました。
六本木には、アメリカがあり、世界がありました。そこで世界のオンリーワンを作ると、世界中から人々が集まってきたのです。当時の私は「海外にすぐに出なければ」と思っていましたが、そうではなく、情報の発信というものは、いかにして、まだSNSどころかインターネットすらもなかった時代だからこそどういう人を集めるのか。その人の集まり方によって、いかようにも世界への発信はできるのだ、と感じるようになっていきました。そして、そのリアルな空間をしっかり作るということが大切だと確実に実感していくことになりました。
そうした空間が、たとえばイタリアンの有名店やショーパブ、それから新宿の花園神社の地下にあった「第三倉庫」というライブハウスです。特に「第三倉庫」などは、訪れると外国人になったような気持ちを味わえるので、とても好きでした。当時は、マイケル・ジャクソンもマドンナも、来日してライブを行うときは必ず「第三倉庫」でした。私はそういうときだけ、「おい修二郎、接客行け」と言われて、「行ってきまーす」と答えて、彼らの接客をしていました。仕事が終わると、先輩に「Red Shoes」など外国人しかいないバーへと連れてってもらい、お酒の嗜み方、人生の楽しみ方を、教えてもらっていました。そこが、私にとっての原風景なのです。
当時は、故郷の西戸崎の風景と、自分の思考がつながっているなんて思ってもいませんでした。一つひとつが、まだ「点」だったのです。「うわ、これ面白い」「うわ、渋谷面白い。渋谷はこんなふうに描いたら面白い」「この裏道の方が面白い」というような感覚や、空間と人との関連性なども、大人の方々に一つひとつ、教えてもらっていたような感覚です。
そうした「点」と「点」が繋がって、私という人間の価値観がつくられ、のちに手掛ける会社へと繋がっていったと感じるのは、後になってのことです。