
地球を未来に残すための挑戦(後編)
ビジョナリー編集部 2025/04/24
4/28(月)
2025年
大西 洋 2025/04/10
吉祥寺プロジェクトで得た経験は、自分にとってかけがえのない財産となった。さまざまな業界の人々と出会い、多角的な視野を持つことの重要性を実感し、貴重な経験を積むことができた一方で、「やはり自分は現場に立ちたい」という気持ちも強くなり、売場への復帰を希望した。
ところが次に辞令を受けたのは、「店舗開発部」だった。またしても、新しい店舗を立ち上げるための部署でのスタートだった。
この時期、伊勢丹では新たなプロジェクトが立ち上がっていた。4代目・小菅国安社長が長年思い描いていた「関西進出」を実現すべく、「関西プロジェクト」という社内横断チームが発足したのである。
当時、関西には伊勢丹の店舗はなく、関西の人は2人に1人しか伊勢丹を知らず、関西エリアにおけるブランド認知はまだ発展途上だった。
そしてその時に出店を狙った土地が、京都駅だ。6人の若手を部長がまとめるというチーム構成で、その1人として自分も参画した。
交渉相手は、ジェイアール西日本。最初の打ち合わせで感じたのは、企業文化の違いだった。いざ会議の席についてみると、仕事の仕方が、伊勢丹のそれとはまったく異なっていた。
伊勢丹では要点を絞った簡潔な資料が好まれるのに対し、先方は議論の土台として、詳細な資料を用意するスタイルだった。それぞれのやり方を尊重しつつ、より良い形で協業を進めるため、私たちも新たな視点で準備を整えていった。
実は当初、京都には他の百貨店が出店する計画が進んでいた。しかし、名称などを巡る調整がつかず、計画は白紙に。その後、伊勢丹に声がかかり、交渉が本格化したというのがこのプロジェクトの発端である。
最終的に、小菅社長とジェイアール西日本の社長が握手を交わし、京都駅ビルへの出店が決定。
東京へ帰る新幹線の中。
「やっとこれで、西へ出られる――。」
東京へ戻る新幹線の中で、社長が静かに涙を流された姿を、今でも鮮明に覚えている。長年の夢が叶った瞬間だった。
しかし、そこからが本当の勝負だった。伊勢丹の出店に際し、同業他社との調整が必要だった。とりわけ当初出店予定だった百貨店は、もともと自分たちがやろうとしていたものを伊勢丹に取られてしまったわけだから、そう簡単に話が落ち着くものではなかった。
結局のところ、契約締結してから開業までには、さらに数年の歳月を要することとなった。
最終的に1997年に開業。開業時には経済環境や市場の潮目の変化もあり、最終的には当初の計画の半分近くまで売上目標が見直されることとなった。
これは後日譚だが、株式会社ジェイアール西日本伊勢丹の2代目の社長にはあのKさんが就任することとなる。関西プロジェクトに彼は入っていなかったが、不思議な縁を感じた瞬間だった。
京都プロジェクトを終え、これでいよいよ紳士服売場に戻れるかと思った矢先、会社からの新たな辞令。赴任先はマレーシア。
かつて伊勢丹新宿店の紳士服売場の上司だった方がマレーシア店の社長を務めており、その人から声がかかったのだ。しかも、配属先は総務部だった。
自分は営業をやりたいと伝えたところ、調整のうえ「営業総務」という肩書がつけられた。
これが、私の4年間にわたるマレーシアでの新たな挑戦のはじまりだった。