
社会を「丹(あか)と青」の豊かな色で鮮やかに彩る...
7/17(木)
2025年
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楠本 修二郎 2025/07/09
人事異動で営業部へと配属され、さまざまな経験をさせてもらいました。
全て自分でやったわけではありませんが、例えばマンションのような新築大型物件の売り方を先輩に聞いたり、さまざまな人たちにアドバイスをもらったりして企画書を作り、結果、180戸の大型物件を全て売り切りました。そして、その年の年間最多契約賞を営業1年目でいただくこととなりました。
ただ、これは武勇伝ではなく、池田社長をはじめとした諸先輩方が、「まあ、楠本はずっと縁の下で頑張っていたから、ちょっとヒーローにしてやろう」と思ってくださってのことだと思っています。そうして、決めた目標をやりきる、商品を売り切る、といった厳しさを営業で学ばせてもらいました。
しかし、それは自分がずっとやり遂げたいものではありませんでした。それほどまでに、小さい頃から大学時代まで自分の中に残っていた、「人が楽しく集まる価値ある空間づくり」の風景が忘れられませんでした。ハコモノを企画開発するのではなく、ライフスタイルを企画し開発するのだという変わらぬ思いからでした。そこで、再度異動を志願することとしました。
今回は、私にも一つ作戦がありました。リクルートコスモスの子会社に、インテリアデザインを手掛ける内装会社があり、住宅のリニューアル再販やデザイン力を上げていかなければいけない課題を抱えていました。そこで上司に、「私にその会社でやらせてください」と頼みました。私は店舗も運営してきた自信があったため、リクルートコスモスのデザイン力を上げるためにと、あえて店舗内装も提案しました。すると、「店舗内装も含めて、いろいろなデザイナーを繋げて持ってきますから」と、子会社の新規事業部を新設してもらうことができました。
こうして私は、子会社の新規事業部の一担当者として、商業をスタートさせることとなりました。通常の感覚で言えば、本社から子会社へ異動し、できたての事業部の担当になるなど、都落ちのさらに都落ちのようなものだと先輩の皆様にも指摘されました。しかし私にとっては、念願の商業ができるのであれば、そんなことはまったく関係ありませんでした。上司である総務課長から「本当にいいのか」と念を押されましたが、「本当にいいのです」と答えると、課長も「よし。じゃあ僕と一緒にやろう」と賛同してくれ、新規事業部は始動しました。
課長と仕事をするのは楽しく、気がつくとリクルートコスモスに5年在籍していました。しかしその頃、リクルート事件を受け社長の引責辞任、代理弁護士への株式の売却がなされました。後のリクルートの復活はまた目を見張るものがありますが、この時点においては、自分の中では「リクルートの一時代は終わったな」と感じていました。
起業するために入社した会社でしたが、気がつけば「いろいろな旅をしたな」という感覚があります。28歳になって万感の思いになり、「リクルートをやめよう」と思いました。やめなければ、自分の中で何かが始まらない。ただ、不動産仲介業で起業するという選択肢は、私の中にはありませんでした。やはり、どうしても空間作りがしたかった。ライフスタイルの提案ということをしたかった。人が集まる場を作ることが、自分にとって最も大切でした。もう一度、何らかの形で修業をするしかないと考え、リクルートを退職しました。
呼吸と同じく、人間、何かを吐き出すと、何かが入ってくるものです。私の場合、辞めると決めたタイミングで浮上したのが、経営コンサルタントである大前研一さんの存在でした。私が学生の時からお世話になっていた方からのご紹介で大前さんが、その頃ちょっと新しい動きをしており、それに参画することになったのです。
私はずっと大学で、大前さんの本をバイブルとして読んでいました。大前さんの本はビジョンを示しており、ビジョナリー(先見性、ビジョンをもつこと、理念経営)がいかに大切かを気づかせてくれたのです。1980年に刊行された、アルビン・トフラーという未来学者の名著『第三の波』において、インターネットの未来が予測されていますが、大前さんもそうした波を予測していた人物の一人でした。この方のもと修業したいと思い、飛び込みました。