
社会を「丹(あか)と青」の豊かな色で鮮やかに彩る...
7/17(木)
2025年
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楠本 修二郎 2025/07/07
リクルートを作ったのは、江副浩正さん、池田友之さん、そして大沢武志さん、この3人です。池田友之さんが当時リクルートコスモスの社長を務めておられたので、私は池田さんの秘書となりました。そこから3年間は、とにかくどこへでも駆け回りました。東京地検特捜部に呼び出されて取り調べも受け、社会の不条理というものも学びました。警察からドンと机を叩かれ、デスクライトをパカッと照らされ怒鳴られるのです。心の中で、「なんで俺は、こんなに不幸なのだろうか」と思っていました。
当時、リクルートコスモスのオフィスは銀座7丁目にあり、近くには帝国ホテルや日比谷公園があります。日比谷公園の隣には東京地検特捜部の木造庁舎があり、昼はそこで取り調べを受け、夜は帝国ホテルで弁護士とミーティングをするという、公園とホテルを行ったり来たりの毎日を送っていました。
「逆に社長と、社内のメンバーと交流するチャンスではないか」と考え、部署ごとに社長との食事会をセッティングしていきました。例えば、男性の会は敢えて居酒屋で行うことで、社長とざっくばらんに話がしやすい場をつくったり、女性社員は大変な激務をされていたので、『池田社長がフレンチにお連れします』というねぎらいの会を演出したりしたのです。
その幹事をしているときは、「酔っているけど、酔っていない」という状態を保っていました。「私はこの後また仕事があるので、お酒は飲めません」といった野暮なことは決して言いません。しかし、どれだけ酔っても、常に理性は保つようにしていました。
食事会が終われば、気持ちを切り替えて弁護士とのミーティングです。そして、帝国ホテルから出てくるときには、もう深夜0時、1時をまわっていました。当時の銀座は、その時間になるとタクシーもつかまらず、なかなか帰れないのです。こんなことを言うと、よく「バブルっていいですよね。みんな夜な夜な銀座で飲んでたんですよね。で、タクシーで帰れなくて、4時くらいまで遊んでたんですよね」と言われますが、私の記憶はそんな良いものではありません。終電を逃したらタクシーに乗れるのは3時、4時になるので、タクシー乗り場の列に2時間、3時間、ずっと並んでいました。
そして、わずか1、2時間だけ寝ると、もう朝がやってきます。それでも、絶対に寝坊はしませんでした。毎日が闘いだからです。今でも私は、目覚まし時計をかけたことがありません。起床予定時刻の1分前になると、必ず自力で起きて、「よっしゃ!」と1日をスタートさせる癖は、当時のsoldier spiritが育んでくれたものです。
現在の日本は、本当に平和になりました。だから、そういった『臨戦態勢』という言い方が正しいのかはわかりませんが、非常時の感覚やハングリー精神というのは、なかなか経験したくともできない時代になっていると感じます。
ともあれ、このリクルートでの過酷な新人時代というのは、自意識過剰で勘違い学生だった若造の私を、神様が「ガツン!」と頭を叩いて、「修業し直せ!」と喝を入れてくれたのではないか、と今では思っています。