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医療では救えない命がある。だから彼は用水路を掘った──中村哲の挑戦
ビジョナリー編集部 2025/12/18
医療では救えない命がある──。
その現実に向き合った一人の日本人医師が、荒れ果てたアフガニスタンの大地に水を流し、砂漠を“緑の大地”へと変えました。
医師であるにもかかわらず自ら井戸を掘り、やがては全長25キロの用水路を建設するという前代未聞の挑戦を成し遂げた男、中村哲。
なぜ彼は治療という枠を超えて、「生きるための水」を届けようとしたのか。数十万人の命を救った軌跡と、その原動力に迫ります。
昆虫少年が志した人を救う道
少年時代、中村哲を夢中にさせたのは医療ではなく昆虫採集でした。「この辺りで捕れる蝶はほとんど持っていた」と語られるほどの熱中ぶりで、後年、アフガニスタンのヒンズークッシュ山脈に生息する珍しい蝶・パルナシウスに憧れを抱き、「一度は訪れたい場所」と本にも記しています。
彼の人生を大きく変えたのは、中学校で出会ったキリスト教でした。洗礼を受け、クリスチャンとなった中村は、「世のため人のために役立つ仕事をしたい」と医学部進学を志します。この想いが、やがて国や宗教、民族を超えて多くの人々を救う大きな原動力となっていきます。
パキスタンから始まった医師としての挑戦
1984年、中村は国際医療NGOの一員としてパキスタン・ペシャワールに派遣されます。彼が最初に向き合ったのは、ハンセン病(らい病)の蔓延でした。
現地では、裸足で生活する人が多く、ハンセン病で感覚の麻痺した足では小さな傷でも重症化し、最悪の場合は切断に至るケースも少なくありませんでした。
中村は治療だけでなく、患者の足を守るためのサンダル作りにも乗り出します。病院内に工房を設け、現地の靴職人や、ハンセン病で職を失った人々を雇い、無償でサンダルを提供しました。デザインにも配慮し、医療用とわからないよう現地の流行を取り入れました。
その結果、足の切断手術は激減し、患者だけでなく周囲の人々にも希望をもたらしました。
干ばつ難民を救うために
やがて中村の活動は、パキスタンから隣国アフガニスタンへと広がります。
1991年、ソ連の侵攻や内戦に揺れるアフガニスタン東部ダラエヌール地区で初の診療所を開設。診療所には近隣の村から毎日200人以上の患者が押し寄せました。
しかし、深刻な問題は戦争だけではありませんでした。
2000年前後、アフガニスタンは100年に一度の大干ばつに襲われます。農地は枯れ果て、食糧も水も不足。多くの人が飢えや渇きで病に倒れ、難民となって国を離れざるを得ませんでした。
このとき中村は医師として気づきます。
「ほとんどの病気は十分な食べ物と清潔な飲み水があれば防げる。飢えや渇きは薬では治せない」
そこで彼は、診療行為にとどまらず、井戸掘りに挑戦。自ら削岩機を握り、1600本もの井戸を掘り進めました。この活動は、わずか2年で15万人の命をつなぐ結果となりました。
命を救うのは100の診療所より1本の用水路
しかし、地下水の枯渇や政府の井戸掘り禁止命令によって、次なる課題が浮かび上がります。
2003年、中村は「緑の大地計画」と銘打ち、アフガニスタン東部のクナール川から用水路を引く壮大なプロジェクトをスタートさせます。13キロメートルにも及ぶ用水路を建設するという、常識をはるかに超える挑戦でした。
土木の知識がなかった中村は、専門書を取り寄せ独学で設計図を描きました。現地スタッフや日本の若者を巻き込み、重機も自ら操りながら建設を進めます。
用水路建設で特にこだわったのは、現地の人が自分たちで維持・修理できる仕組みです。日本の伝統的な工法である“蛇籠”を使い、特別な材料や技術を使わず、現地の石や人手で作れるよう工夫しました。
さらに、筑後川の山田堰(やまだぜき)からヒントを得て、川の流れを自然に利用して水を導く堰を設計。何度も氾濫や堰の崩壊に悩まされながらも、粘り強く改良を重ねました。
“助ける側”ではなく“ともに創る仲間”として
用水路工事は現地の人々と一体となって進められました。中村は「助ける側・助けられる側」という上下関係を拒み、現地の人が主役となる体制づくりにこだわりました。「現地の人が技術を身につけなければ続かない」と叱咤し、持続可能な支援のあり方を徹底しました。
工事に携わった若者やスタッフの中には、命を落とした人もいました。農業指導で活躍した伊藤和也さんが武装勢力に襲撃されて亡くなったとき、中村は「憎しみで団結しようとするのではなく、前に進む道を選ぶ」と語り、悲しみを乗り越えてプロジェクトを続行させました。
25キロの用水路が“死の谷”を“緑の大地”へ
建設開始から7年。用水路は当初の13キロから25キロメートルへと延伸され、ついに“死の谷”と呼ばれた砂漠地帯に水が流れ始めます。1万6500ヘクタールもの土地が緑に変わり、65万人以上が自給自足できる環境が実現しました。オレンジや柳の木が植えられ、牛や蜂も戻り、農業や酪農が再び息を吹き返しました。
現地の人々は、かつてアヘン栽培に頼っていた土地が、穀物や果物が実る豊かな大地へと変貌するのを目の当たりにし、「争いの根源である貧困と飢えが解消された」と語ります。
また、中村はイスラム教徒のためのモスクや学校の建設も手がけ、子どもたちに学びの場を提供しました。
「平和とは観念ではなく、実態である」
中村のこの言葉通り、用水路がもたらしたのは“日常の平和”そのものでした。
魂を受け継ぐ仲間たちと、終わらない挑戦
2019年12月、中村哲は現地で武装勢力に襲撃され、帰らぬ人となりました。その葬儀では、アフガニスタン大統領自らが棺を担ぎ、彼の功績を讃えました。
彼の遺志は現地の仲間や日本の支援者によって今も受け継がれています。
「議論より実行」と現場を導いた若い責任者たちが、困難な状況の中でも用水路の補修・拡張を継続し、タリバン政権復活や地震災害など新たな危機にも、現地の人々自身が中村の精神を胸に立ち向かっています。
アフガニスタンでは、中村の愛称「カカ・ムラド(中村のおじさん)」を冠した絵本が出版され、彼の物語は次世代へと語り継がれています。
“人として最善を尽くす”――中村哲の残したもの
中村哲は「世界がどうとか、国際貢献がどうとかに煩わされてはいけない。出会った人、出会った出来事の中で、人として最善を尽くすこと」と語っていました。
彼の生き方は医師の枠を超えて、「本当に人を救うために必要なものは何か?」と私たちに問いかけ続けています。
診療所から井戸へ、井戸から用水路へ。
中村哲が自らの手で切り拓いた“緑の大地”は、目の前の人に寄り添い、その命を守るために、できることを愚直に実行し続けた証なのです。今もアフガニスタンの大地を潤す水の流れは、中村哲という一人の医師の情熱と、現地の人々、支援者たちの絆の結晶です。
その精神は、場所や時代を超えて、私たち一人ひとりの“生きるヒント”となることでしょう。


