
社会を「丹(あか)と青」の豊かな色で鮮やかに彩る...
7/7(月)
2025年
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楠本 修二郎 2025/07/02
私の父は昭和4年生まれで、母は昭和10年生まれ、二人とも戦争経験者でした。
父は戦後、同志社大学に入学し、マンドリンクラブに入って、「My Old Kentucky Home」というアメリカの曲を演奏していました。一方で、父は軍歌で育った世代でもありました。それなのに、「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」です。これは、あの時代特有だと思います。「日本、バンザーイ!」と「アメリカ、大好き!」が同居している、入り組んだ世代。それは、父だけではなく、日本全体が劇的に変わった時代だったのだと思います。
父はずっと剣道をやっており、私の家は剣道一家でした。姉も強く、兄も西日本新聞に「楠本、五人抜き」と大きく掲載されていました。私も3歳の物心ついた頃から剣道をやっていましたが、父親にはすごく反抗心をもっていました。
中学までは、剣道部とサッカー部を掛け持ちしていましたが、兄が修猷館高校という進学校に入学し、卒業と同時に入れ違いで私も同じ高校へ入学すると、部活選びが始まります。剣道部員からは、「弟の修二郎が来る!」と少し騒がれていたようです。一応私も剣道では「兄貴よりもすごかばい」と言われるくらいには練習を積んでいました。しかし私は父への反発精神から、「すいません、剣道部行きまっせーん!」と宣言し、サッカー部へと入部しました。当時、剣道部員はみな拍子抜けだったと思います。そのくらい、父を常に意識していました。
そんな父は、とてもロマンチストな人でもありました。もともとは、家族で福岡の都心に住んでいたのですが、あるとき急に父が「引っ越すばい」と言い出したのです。
「どこに引っ越すとね?」と訊くと、「西戸崎っていうところじゃ」。「なんじゃそれ」と私たちは反対しました。福岡県人というのは、東京と違って、ちょっと距離があると「遠い、遠い」と言い出します。西戸崎とは、船で行っても福岡の博多港からわずか15分の距離です。車で行っても、一般道で40分ほど、今は高速があるので30分以内で到着します。
東京であれば、都心から30分といえば、通学通勤でもまったく普通の距離です。しかし、私たち家族はみな、「船か。島流しか!」と騒ぎ、反対しました。それでも父に、「なんで?」と訊くと、「海の近くへ行ってみたか」――と。西戸崎というのは、志賀島と陸でつながっている、海の中道というところだったのです。
結局、父の強い希望で、私たちは小学校3年生のときにこの海の中道へと引っ越しました。しかし、海の近くというのは、行ってみると何にもないところです。それで一番苦労したのは、母でした。今でこそコンビニもできましたが、当時はスーパーマーケットすらなく、食材の仕入れから生活用品の支度まで、本当に大変だったと思います。
ただ、その海の中道の、私たちが住んでいた博多湾側は、西日がどっぷり落ちる、ものすごく綺麗なところでした。その点では、父に感謝しています。私は毎日海の上を、船やタンカーが通るのを眺めているのが好きでした。当時、博多の海は世界と交易があったので、現在よりも船の行き来も多かったのではないかと思います。子どもながらに、「船に乗っていけば、世界に行ければ…」ということを、夢想していました。