「日用品メーカー」からの進化。エステーが描く「ウ...
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倒産寸前の修羅場を乗り越え手にした自由
植山 周一郎 2025/12/08
ソニー時代で最も面白かったのは、やはりイギリス駐在時代です。日本の宣伝部門も楽しかったのですが、イギリス時代は宣伝も含めて、現地の販売業務のすべてを私が決めていました。テレビからオーディオテープまですべてのコンシューマー製品の仕入れ価格や販売数量、1年半先の売上予測まで、すべての計画を自分で作り、それをもとに輸入計画、そして宣伝計画を立てていました。クリスマスシーズンに商品が大量に入るように調整し、それに合わせて広告予算を使い切る。文字通り、すべてをコントロールしていたため、非常に面白かったのです。
その代わり、10年の駐在期間中に、会社を倒産の一歩手前まで追い込んだことが二度ありました。一度は、商品を仕入れすぎて倉庫が在庫であふれ返ってしまった時、そしてもう一度は、急な増税で需要がストップした時です。在庫は抱えてしまった以上、どうしようもないため、イギリス全土の大型店上位10社の社長と直接交渉し、「カラーテレビを100台買ってくれ」と頼みました。その見返りに、広告援助をする、ただし値引きはしないでくれと。今考えると、メーカーが小売価格を言ってはいけない独占禁止法に抵触しかねない行為でしたが、実質的な値下げとなる宣伝費を出すことで、なんとか危機を乗り越えたのです。
ソニー本社の宣伝制作部次長の仕事をエンジョイしていた頃、世界最大の広告代理店BBDOの社長と副社長が来日して、彼らに説得されました。「ソニーを辞めて、うちの特別顧問になってくれ」と。役職は「BBDO社長付特別顧問(エグゼクティブ・カウンセラー・トゥ・ザ・プレジデント・オブ・BBDO・ワールドワイド)」という肩書きです。ソニーにいた時の月給は、数十万円程度でしたが、BBDOからの顧問料は月々100万円。それに加え、ガソリン代や接待交際費などの経費がすべて支払われるという条件で、結果として毎月200万円程入ってくる計算です。
契約書の中身も読まずにサインしましたが、それは何年続くかわからないものでしたし、他に仕事もないので、とにかく一生懸命働きました。その結果、前にもお話しした通り、旭通信社の稲垣社長を1年かけて口説き落とし、10億円の資本提携に漕ぎ着けるといった結果を残していきました。
その調印のため、ニューヨークへ向かったのですが、調印後の食事の席で、BBDOのトップが私に耳打ちしました。「来月は、BBDO全社で君の所得が一番多いよ」と。驚いて後で契約書を見返すと、そこには「成功報酬」という条項があり、日本への投資金額(10億円)の7.5%が入ることになっていたのです。こうして、私のもとに一気に7,500万円ものお金が振り込まれてきました。
BBDOと旭通信社の提携は2、3年続きましたが、旭通信社が上場すると、株価が4倍にも膨れ上がりました。すると、ドライなアメリカ人はその株式をすべて売却。約30億円の利益を回収したのです。
この旭通信社の社長との交渉や、その成功報酬の話をベースに書いたのが、角川書店から出した小説『パストラル』です。当時の書籍の編集長だったのが、後に幻冬舎を設立する見城徹さんでした。彼とは、私の最初の留学記『サンドイッチ・ハイスクール』を読んで感激し、編集者を志したという運命的な出会いがあり、それがきっかけで『パストラル』を執筆することになったのです。
こうして振り返ると、ソニーを辞めたことで得た「自由」と、予想もしなかった巨額の成功報酬、そして小説家としての活動が、その後の私の人生を決定づけたのだと思います。現在までに、60冊近くの著書を出版し、多くのテレビ番組を企画・司会し、国内外で講演をし、ヴァージングループなどの日本進出のコンサルティング、マーガレットサッチャー元英国首相の日本での代理人など、ありとあらゆる仕事をする人生を歩む結果になったのでした。


