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2025

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    ソニーで用意された将来を捨てて――人生の分岐点

    ソニーで用意された将来を捨てて――人生の分岐点

    イギリスで「3つのHigh」によるブランディングを確立した後、私は約10年ぶりに日本に帰国しました。帰国後、盛田昭夫会長と大賀典雄社長には特に可愛がっていただきました。盛田会長は「お前はイギリスで販売ばかりやってきたが、ソニーの将来の経営者になるには工場を知らなければならない」と、私を大崎の工場へ行かせてくださいました。そこは、テレビとビデオを製造している工場でした。

    そこで社長から与えられたミッションは、「何でもいいから新製品を考えろ」というものでした。そこで、エンジニアを数人つけてもらい、当時世の中になかった「テレビデオ」という製品を開発したのです。これは、テレビとビデオデッキを一体化したもので、後に市場に出たわけですが、しばらく工場にいるうちに、私は次第にこの仕事に魅力を感じなくなってきてしまいました。

    そんなある日、大賀さんに呼ばれた際、正直にお伝えしました。「今やっていることは、つまらないです。イギリスでは販売、仕入れ、広告、価格設定などすべてやってきたので、ここで一つ商品を企画しても面白くありません。日本の宣伝はダサいので、僕は宣伝をやりたいです。宣伝部の部長にしてください」と、直訴したのです。

    当時1982年で、私は37歳。大賀さんは「37歳ではまだ部長になれない。45歳くらいにならないと無理だ」と言いながらも、「その代わり次長にしてやる。部長はデザイン室長の黒木に兼任してもらうから、お前が部長のつもりでやってみろ」と言ってくれました。私は「分かりました。良い広告を作るように頑張ります」と伝えました。宣伝の仕事はとにかくお金がかかる。年間150億円もの予算を任されることになりました。

    そして、電通、博報堂、東急エージェンシー・インターナショナルといった大手広告代理店を使い、縦横無尽に宣伝活動を仕掛けました。その際、代理店からの接待攻勢が始まるわけです。「食事をしませんか」「ゴルフに行きませんか」と、ひっきりなしに招待が来ます。

    私は、大賀さんに相談しました。「やたら招待が来るのですが、どうしたらいいですか」と。すると大賀さんは「全部受けていい。その代わり、支払いは全部ソニーでやれ。だからお前には無制限の接待費をやる。相手に払わせるな」と言ってくれました。かっこいいですよね。

    私はその言葉通りに実践しました。電通さんなどがゴルフや食事に招待しても、プレーフィーも、レストラン代金もすべてソニー側で支払ってしまうのです。当然、代理店側は顔が丸潰れになり、真っ青になってしまう。「払わせてくれない」と、みんな困っていました。

    この宣伝部門時代は、非常に楽しかったです。CBSソニーと組んで、サイモン&ガーファンクルを日本に呼び、後楽園球場でコンサートを開催したり、ビリー・ジョエルのテレビ番組枠を買い取って全国に流したりするなど、面白いことばかりやっていました。

    そうして、この楽しい日々を2年ほど過ごした後、また大賀さんに呼ばれました。「もういいだろう。今度は管理部門へ行け」。そこには、ビジネスの核である「金」を学ぶため管理部門で学び、その後アメリカへ行く、という青写真が用意されていました。

    しかし、結論から言うと、私はそのレールを裏切ってしまうこととなります。ソニーが用意してくれたキャリアを投げ出し、40歳手前で会社を辞め、植山事務所を立ち上げたのです。無茶苦茶な決断でしたし、それまでの盛田昭夫会長や大賀典雄社長らからのご厚情を裏切る行為でした。

    それが良い判断だったか、悪い判断だったかは、今もって分かりません。辞めたからこそ、こうして面白い人生を送れているのは確かです。しかし、ソニーにそのままいたらいたで、もっとスケールの大きい、グローバルな仕事をたくさんやっていた可能性もあります。例えば、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツと組んで、のちのiPodやiPhoneのような画期的な製品を、一緒に生み出していたかもしれません。

    この人生の分岐点について考えるとき、私には一つ、哲学的に面白い映画を思い出すのです。イギリス・アメリカ合作の映画『スライディング・ドア』です。私が大好きなグウィネス・パルトロウが主演で、映画の中で彼女が走って地下鉄の階段を降りるシーンがあります。そしてそこから、2つのストーリーが交互に描かれていきます。1つのストーリーは、彼女が電車に間に合った場合。もう1つは、間に合わずに電車が行ってしまった場合。人間は、残念ながら両方の人生を生きることはできません。この映画を見るたびに、「もしソニーにいたらどうだったかな」と、考えさせられるのです。

    それでは、なぜ私は退社を決めたのか――それは次回詳しくお話ししようと思います。

    #植山周一郎#ソニー#経営コンサルタント#コンサル#交渉人#代理人#ブランディング#マーケティング

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