
社会を「丹(あか)と青」の豊かな色で鮮やかに彩る...
7/7(月)
2025年
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楠本 修二郎 2025/07/04
引っ越した西戸崎の地でようやく楽しくなってきた矢先、福岡の中心街に戻ることになりました。そこから、父に対して少し反抗的になっていきました。それほど、西戸崎で心を育んだのです。
中学生の時は父に反抗して、警固(けご)中学校という福岡の中心街にある中学校で、カッコばっかりつけていました。それも、今の自分のスタイルの一つになっていると感じています。当時福岡には、道端を歩いていて、人と目があったら逸らしてはいけない、という法律がありました。何人たりともガンつけたら、ガンつけ返さないといけない、という法律です。そうなると高校生だろうが何だろうが関係ありません。もちろん、相手が強いとボッコボコにやられます。でも、それが掟だから仕方がないのです。その他にも、近くの春吉中学校とのケンカに明け暮れました。警固中対春吉中の戦いは、毎年「K中対H中」と名を伏せられて新聞に載るくらい激しいものでした。
私は当時から、正義感っぽいいたずらが大好きでした。ある日、「先生たちが、秋から冬にかけて、プールで鯉を飼っているらしい」という噂を聞きつけました。そしてその鯉を、プール開きの前に鯉こく(輪切りにした鯉を味噌で煮込んだ郷土料理)にして食べている、というのです。私は、「なんで先生だけが食っとるとか!」と友人と話しました。今にして思えば、別にいいのでは? という話なのですが、「それは許せん! 俺たちが釣りに行こう!」と仲間を焚き付けました。友人3人連れだってプールに行き、バケツで鯉を釣りまくりました。すると、教室の床にもうバシャバシャと鯉が暴れるくらいの大漁となったのです。先生たちにはすぐにバレて、ボカッと殴られました。そんないたずらが、大好きでした。その一方で、西戸崎で育まれた私の夢である「海外に行く」という思いは、変わらず抱いていました。
そして中学卒業後、先に述べた修猷館高校に入学し、その後は早稲田大学の政治経済学部へ進学しました。当時の私は、勉強法が非常に偏っており、好きな科目しか勉強しなかったのです。その教科とは、世界史でした。受験期でも、ほぼ世界史しか勉強をしませんでした。英語はそれほど嫌いではなかったので、それなりにやっていましたが。
そして、世界史と国語と英語の三教科で受けられるところが、ほぼ早稲田しかなかったのです。上智大学や慶應大学もありましたが、慶應大学は法学部以外になく、慶應の経済学部などは、数学も受験科目に入ってきます。その中で、早稲田大学の政治経済学部が最も、世界史で差をつけられる学部だったのかもしれません。高校生のとき、世界史に関しては、全国2位でした。『超世界史オタク』です。勉強していた、というよりも、知りたくてしょうがない、という感覚で探求していたと思います。
そうして早稲田大学に入学したものの、当然のごとく、勉強は一切やりませんでした。兄が慶應大学に入学して先に上京していたのですが、私と違って真面目な兄は、慶應大学の軽音楽部に入ってサキソフォンを吹いていました。私が東京に上京した日、その兄が「修二郎、六本木連れてったる」と言って、初日から六本木へ連れていかれました。私は、六本木という町がどんなところかも、何もわかっていませんでした。そこで連れて行ってもらったのが、六本木の交差点地下の「Mr. JAMES」というライブハウスです。
そこは、加賀まりこさんのお兄さんが経営していた、とても雰囲気のあるライブハウスでした。40坪くらいの小さなお店です。私はすっかりそこが大好きになり、「学校は、行かない!」と決めました。それからは、渋谷と六本木、またファッションも好きだったので、表参道などに毎日通い詰めました。夜になると、六本木です。決して遊びほうけていたわけではなく、そこが仕事場でした。博多もんなので、剣道とバンドは必修科目です。バンドはやらんといかんとです。そうして大学時代は、ファッションを楽しんだり、バンドで歌う日々を過ごしていました。