
「人と社会に直接貢献できる仕事」――日本語教育を...
5/23(金)
2025年
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八木原 保 2025/05/10
原宿は様変わりしていった。表参道に歩行者天国が設けられ、そこを起点に新しいカルチャーが誕生した。竹下通りは“KAWAII”文化を作る場所として発展を始めた。
そんななか、私は1つの相談を受けた。相談の主は森ビル株式会社の故・森稔専務(当時。のちの同社会長)、原宿・表参道にできたラフォーレ原宿を運営していた会社の人物だ。
ラフォーレ原宿は、急速にファッションの街と化した原宿の需要を取り込もうと、1978(昭和53)年に建設された。経営元の森ビルは、今でこそ六本木ヒルズや麻布台ヒルズを打ち出し、商業的に大成功を収めているが、当時はうまくいっていなかった。ファッション特化のデパートとしては丸井やパルコが先行しており、同じことを企画しても後手に回ってしまう。そこで、私に話をいただいた。
「どうしたらラフォーレ原宿をファッションビルとして注目を浴びさせることができるだろうか。どうか助けてほしい」。そして、私が60%、森ビルが40%で出資を行い、代表取締役に私が就任し、株式会社ハイパーハイパーという会社を設立、改革に取り組むこととした。 私が着目したのは、マンションメーカーと呼ばれる小さなデザイナーブランドの存在だった。「マンションメーカー」とは、その名の通り、大きなオフィスを借りずに、小さなマンションの一室を借り、スタッフ数人程度の規模で創作・営業活動を行うメーカーのことだ。当時、原宿の土地は安かったので、月5千円あるいは1万円で物件が貸し出されていた。そのような物件を利用し、若いデザイナーたちが小資本で自分たちの力を試していたのだ。私はそうした若いクリエイターをまとめ、徹底して若者をターゲットとすることを考えた。
そこで、ラフォーレ原宿の地下1階に60坪ぐらいの店を作ることにした。トータルショップ「ハイパー・オン・ハイパー」の誕生である。紳⼠、婦⼈服、ニット、ソックス、シューズ、アクセサリーなど専⾨メーカー32社による商品を集めたが、そこでは若手ブランドの商品を多数取り扱った。つまり、起業や事業の創出を支援するインキュベート機能を持ったショップを誕生させたのである。新人デザイナーや新ブランドがそこで一定の売上を上げれば、ラフォーレ内に5坪くらいのショップを出店させるという仕組みを、森ビルとともに構築した。そうして話題の店をラフォーレの中に次々と出店させ、「平成ブランド」と呼ばれるファッションブランドを多数生み出すことができた。セールのときなどは、ラフォーレには5,000人ぐらいのお客さまが列を作っていたものだ。
現在、ラフォーレ原宿は世界から見たときに「ファッションの聖地」と呼ばれるようになっているが、ハイパーハイパーの設立がその起爆剤となったのであれば光栄である。なにより、新人デザイナーに光をあてる場を生み出すことは、のちのファッション業界の興隆にとって重要な一歩であると信じて邁進してきた。